エベレスト丸

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 私が、航海士として初めて、会社に採用されたのは1963年(昭和38年)10月のことである。当時の海運界は、戦
後の好況も影を潜め、法律によって業界の再編を進めなければ、海運そのものが立ち行かなくなるという時代で
あった。私が採用されたのは、大同海運・・・しかしこの社名もあと半年という時であった。1964年4月には合併
によって新しい社名の海運会社が生まれ、その後は船そのものの近代化もどんどん進んでいくことになる。大型
化と自動化そして乗組員の削減である。こういう世相真っ只中の1964年2月、私は大同海運に2隻あったタンカー
のうちの1隻エベレスト丸に、半分航海士あとの半分は事務を扱うパーサー職兼務として乗船した。乗船前何ヶ
月かは、当時朝日会館の南側にあった本社へ通い、兼務するための事務の特訓をうけた。受けるほどに「なぜ私
が・・」と、航海士としては半人前にしか見られていないのではという危機感に苛まれた。このエベレスト丸で
の経験は、私にとってまさに忘れがたいものです。公私にわたり半人前を一人前に育て上げてもらいました。乗
り合わせた乗組員一人一人が、すべて恩人なのです。

写真-1  エベレスト丸は三菱重工長崎造船所製の三島型といわ
れる5万重量トンのスーパータンカーで、曲線の多い船
橋が特に美しい船でした。全長225.26m、幅30.50m
深さ15.20m です。写真は1964年3月に和歌山県
下津港で撮られたもので、船側にはDAIDO LINEとあ
り、ファンネルは白赤の二色に塗り分けられています。
写真-2  エベレスト丸にはモンブラン丸という姉妹船がいま
した。そのモンブラン丸の満載航行中の雄姿です。
エベレスト丸の満載航行も、これとまったく同じ姿で
した。
写真-3  そして、4月になると新社名になり、船側の社名も
ファンネルマークも塗り替えられることとなります。
その作業は下津港停泊中です。ファンネルはグリーン
一色・・・甲板部の人達は、その役得をフルに活用し
て、このような「お別れ」をしました。それは大同海
運とのお別れであり、古き良き時代とのお別れでもあ
りました。
写真-4  こうして見ると、ファンネルがいかに大きいかが、
よく判ります。甲板上には予備のプロペラも積んで
ありました。        
写真-5  このように船側は JAPAN LINE となり、ファンネル
はグリーン一色となりましたこれはこれですっきりと
まとまります。新装は成りましたが、エベレスト丸は
自動化とは無縁の、まったくのアナログ船でした。
乗組員は50名近く・・今では信じられません。
写真-6  36あるカーゴータンクを開閉するメインバルブはす
べて手動・・2人がかりでの大変な作業でした。バル
ブがそうであったように、船内にある時計もアナログ
です。4th Officer(私)の仕事として、毎日の時刻改正
があります。時計の針を進めたり戻したり・・・午後
8時船橋での航海当直が終わったらストップウォッチ
片手に船内の全ての時計の針の調整に回ります。最後
は甲板部食堂・・・・
写真-7  そこでは甲板部の人達が肩フリの真っ最中、皆もうす
でに出来上がっています。私が加わり、当直ご苦労サ
ンという訳で、コップと味噌汁が出てきます。味噌汁
の具はジャガイモと玉葱・・それを見た私の一言は
「わーっ嫌いな、玉葱」すると「4thOfficer! そんなこ
と言うちゃーイケンイケン、食わにゃー食わにゃー」
と岡山弁丸出しの大声はボーイ長のMさん・・翌日か
らの私の味噌汁はというと

写真-8  玉葱が山盛り、汁はどこなのか殆ど見えません。衆
目の中、それを食べ尽くすまで、私は部屋に帰しても
らえません。こうして毎日毎日苦行を強いられます。
すると不思議なもので1ヵ月もすると苦行が苦行でな
くなり、玉葱が平気になって来ます。Mさんの押し付
けが功を奏したのか私の努力が実を結んだのかいずれ
にしろ、玉葱を食べる今の私はひとえにMさんあって
の私なのです。  
 初夏のある日の松山港でのこと・・・・荷役中に外から電話です。電話をとった Chief Officer のKさん「オーイ、ツツジとキンギョ言うとるぞ〜。誰や〜?!」 新米の私は小さくなり、百戦錬磨の Third Officer Tさんは「ハーイ!」と返事して 電話に出ます。そういえば、Tさんは昨夜二人して出かけた、あちこちの店で「ツ ツジとキンギョや!」と名乗っていました。本当の名前はけっして言いません。それ にしてもこの電話の人はどこへ何回電話したのでしょうか。とうとう見つけ出され てしまいました。夕方荷役が終わって、Tさんと私またまた二人して、夜の街に繰 出したのは言うまでもありません。 翌日の朝、飯台に並んだ白いご飯と味噌汁が、私にとってとても印象的でした。 古き良き時代の名残です。 残念ながらTさんはこれらの写真に一枚も写って いません。皆が写真を撮っているとき彼は航海当直中、船橋を離れることが出来ません。 ここに写っている皆さんは既に現役を引退されています。不幸にして亡くなられた方も います。皆さん私に素晴らしい船上生活をありがとうございました。ありがとう・・・。 ありがとう・・・。
写真-4 2022年 加筆
このエベレスト丸での2人目の船長はあのB丸受取船長のSさん。若い
航海士(私)に話しかける事と言えば、B丸受取時の出来事の話ばかり
だった。即ち試運転航海中に二重底バラストタンクに海水が流入して
その修理の為に完成が半年も遅れたというものだった。この後2年の
乗船勤務、3年の陸上勤務を経て迎えた昭和44年1月5日(日)私はJL
神戸支店で日曜日の当直勤務に就いた。前日の深酒のせいではっきり
しない頭で机に就いたとたん電話のベルが鳴った。
「五管本部です。お宅のB丸がSОS出してるみたいです。」
「え!そんなはずないでしょう。間違いでは?」と、私...
動静表を見ると数日後川崎入港とある。で、東京本社と横浜支店へ問
い合わせるも、何の連絡も来ていない。その旨五管本部へ報告しよう
としたら、続報が飛び込んで来た。「B丸に間違いありません。」
それを聞いた途端、私は「やっぱりかぁ‼」と思ってしまった。

昭和46(1971)年発行の「社船写真集」によれば、B丸の建造1965年 1969(昭和44)年海難喪失とある。写真は勿論無い。

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