「ドン、ドン、ドン、ドン !」「ドン、ドン、ドン、ドン !」朦朧とした意識のなかで、常にはない異変に気付いた、次の瞬間「ン !? しまった寝坊した。」と思って、夢中で上体を起こした。「オイ、金子、起きろ!起きろ!!今からブラスバンドの練習や!すぐ来い」と、今度は声。上のボンクでは4年生が「うるさい!!静かにせぇ」と怒鳴っている。3年生と2年生はゴソゴソと寝返りを打つ。もう一度その声、「オレは、ブラスバンド部長の井山や。今から練習に行くから、ついて来い。」時計を見ると午前6時・・・ゆうべの新入生歓迎コンパのなかでの話では、朝、起きたら部屋とトイレの掃除をして、授業に遅れないよう上級生を起こす・・・
ことが1年生の仕事ならぬ役目と言っていたのに、なんと乱暴なと、顔も洗わず、しぶしぶ身づくろいしていると、2年生の松川さんが、ボンクの中から背中越しに眠そうな声で、「行って来い」と声をかけてくれる。
人気のない早朝の道を、部長について歩きながら、何がなんだか判らない。ブラスバンドに入部すると言ったわけでもない、ましてや楽器をやっていたなどと誰かに喋った訳でもない。昨日の入学式のあと寮に入って、その翌朝である。まったく腑に落ちない。部長はそれを察してか、説明を始める。「顧問の竹田先生から、ブラスバンドの経験者が入学してくると聞いて、てぐすねひいて待ってたんャ。部員は15人ほどおるけど、経験者は一人もおらん。君はもう部員になっとるし、楽器も用意してあるから、そのつもりで頼むでぇ。」・・・であった。
昭和34年4月某日、私の白鴎寮生活は、このようにしてスタートを切った。入学前の私の思いは、自分の楽器も持っていないし、ブラスバンドはもう止めて、今度こそ運動部へ入ろうというものであった。高校まで、運動部へは、一度も所属したことがなかった。というより、中学でテニス部に一週間、高校でボクシング部に一週間いたことがある。いずれも一週間だったのは、一週間目にブラスバンドに連れ戻され、退部を認めてもらえなかったからである。こうして、自分の思いとは逆に、またもや無理やりブラスバンドに引っ張り込まれてしまった。しかし、運動部を諦めた訳ではない。いろいろ考えて高校からなんとなく気になっていたサッカー部へ入ることにした。
運動部を始めるにあたって、ブラスバンドに対しては、ひとつの申し入れをした。サッカーをメインにしたいということ。部長の井山さんは、そのことを快く了承してくれた。そんなことがいろいろあって、私が実際にサッカーを始めたのは、同級生の皆より10日ほどは遅れていたと思う。が、なにはともあれ、念願の運動部員としての活動も始められる事となった。とはいえ、当時の私はサッカーのことは、何も知ってはいなかったから、それこそ、ボールの蹴り方から・・基本の一から、叩き込まれる有様であった。
早朝にブラスバンド、終わって寮に戻り朝食、授業の用意をして再び学校へ、午後にはグランドへ出て、サッカー部の練習という慌しいけれど、充実した日々は、瞬くうちにどんどん過ぎていった。夏休みの前半には、実家に帰ってアルバイトに精を出し、後半には、サッカー部の合宿でしこたましごかれ、パンパンに腫れ上がった足を引き摺りながら、夏休みの終わりには、3日と短いブラスバンドの合宿にも参加していた。この夏休みの、サッカー部の合宿は、信州大学文理学部の思誠寮で行われた。何畳くらいあったろうか、大きな部屋を一部屋借り切って、そこに布団を敷き詰めて、皆で雑魚寝しながらの、合宿だった。選手兼マネージャー、3年生西山さんの計画では、
近郊の部員は白鴎寮に集合の上、纏まって出発し、夕方には思誠寮に入る、帰省していて集合に無理がある者は、現地で集合というものだった。私は、何かの都合でその計画に乗ることが出来ずに、一人で出発した。指定された現地の集合時間にも、間に合わない遅い出発だった。私があたふたと思誠寮に到着したのは、夜もかなり遅い時間だった。既に、大方の部員が、かすかな寝息をたてている中に、西山さんだけが一人、寝もやらず私を待っていてくれた。皆を起こさぬよう、小さな声で挨拶し、遅れた侘びを言いながら、そそくさと布団にもぐりこんで眠りについた。
「ガラン・・ガラン・・ガラン・・ガラン」ただならぬ大きな物音に思わず目が覚めた。
「何や!? 何や!?」真っ暗闇のなか、今度は、その物音にあわせて、大声も聞こえてくる。
「コウベショウセンダイガク・・サッカーブ・・カンゲイ!!」
「ガラン・・ガラン・・ガラン・・ガラン」
「コウベショウセンダイガク・・サッカーブ・・カンゲイ!!」
「ガラン・・ガラン・・ガラン・・ガラン」
ここに来て、やっと事態がのみこめた。思誠寮の住人達の歓迎セレモニーだと・・・。それも、並大抵のセレモニーではない。すべてが寝静まった、真夜中に数名の・・いや、10数名かも・・の住人たちが、少し離れた向こうの廊下を下駄を履いて、足並み揃えて歩きながら、いっせいにカンゲイ、カンゲイと叫んでいる。
しかも、ガラン・・ガランの間隔が、微妙に長い。これは、ただ歩いているのではない。足音の効果を上げるために、一歩ずつ、前へ飛ぶように足を踏み出しながら、片足ずつ行進しているに違いない。壁に突き当たったか、向きを変えている。その間も足並みに乱れは微塵もない。そして、「カンゲイ!!」のところでは、足音も一段と大きくなる。よほど練習したと見える。それとも、いろんな訪問者に、都度、この手荒なカンゲイを与えてきたのか・・・。その「下駄の行進」が何往復しただろう、突然に、足音も叫び声も、聞こえなくなり、元の静寂が戻ってきた。住人達は、きっと、両手に下駄を握り締め、余分な音を立てないよう、抜き足差し足、それぞれの寝床へ向かっているのであろう。
その格好が、容易に想像されて、暗闇の中、思わずニンマリしてしまった。
そんなざわざわした生活も、二学期に入ると、すぐに静かになった。言わずと知れた前期試験である。続いて銀河丸での乗船実習一ヶ月・・・・この間は、当然ながら、サッカーにもブラスバンドにもまったく無縁という生活が続くことになる。ただ、ただ、学生の本分である、勉学と実習に励むのみである。そして、再び慌しい生活に戻るのは11月の初め・・・銀河丸で本州を一周してきた身には、慣れ親しんだはずの寮での生活も、また新鮮に感じられるものであった。乗船実習もソツなくこなし、船乗りの端くれに身をおけたという小さな自負心も芽生え、サッカーの練習にも、一段と力が入っていった。
そして、このころから部内では、東京との定期戦の話題が多く語られるようになり、それに向けた練習も一段とハードになっていった。
明けて、昭和35年1月、冬休みの合宿も終わり、授業が始まった。が、授業はうわの空・・・「定期戦」はもう目の前、15日に迫っている。実家からは成人式の案内がきていると連絡してくるが、欠席するしかない。
たちまちのうちに、15日の定期戦当日となった。先発メンバーの中に、私を含め何人かの1年生がいる。すべて新しくサッカーを始めた者ばかり・・・心もとない話だが、一番頼りになる4年生は、12月に最後の実習に出てしまって、もういない。それに向けたフォーメイションの練習で、さんざん絞られてきたとはいえ、実質6ケ月ほどしかボールをさわっていないのである。しかし、そんなことには、おかまいなくその時は来てしまった。
「ピーーーッ」
試合開始のホイッスルが鳴った。私のポジションは、当時の表現で、右のインナー、背番号10のFWである。試合開始でボールをとれば、左右のインナーとCFの3人で最初のボールを蹴り出す。CFが右に出せば右の、左に出せば左のインナーが2蹴目を、次に繋ぐことになる。
私にとって初めてのこの定期戦で、神戸はボールをとったか、サイドをとったか記憶にはない。私自身が、どのようにボールに関わり、どのようなプレイをしたかもまったく記憶にない。ボールが動き出して、体も温まり、双方のメンバーの動きが、活発になり始めると、後ろから私に声が飛んできた。
「金子!!」
「金子、金子!!」
「金子、金子!!」
最初の声が誰だったのか覚えているわけもない。後ろにいる上級生は伊谷さん、西山さん、橋田さん、佐川さん達。
「金子、金子!!」そのうちに、CFの川本さんも叫び始めた。
「金子、金子!!」それは、ついにタッチラインの外からも飛んでくるようになった。その意図するところは、時には「ボールをくれ!」であり、時には「向こうへ走れ!」「こっちへ来い」であったろう。「早く戻れ!」でもあり、「今だ、打て!」でもあったろう。「金子、金子!!」の叫び声は、まるでチームを応援する声のようにも聞こえ、試合の間中、グランドに響き渡った。私はといえば、それらの声に叱咤されながら、無我夢中でボールを蹴り、懸命に走った。
後半の半ば過ぎには、足がつって、ビッチの中で手当てを受けたが、交代にはならずに、終了の笛まで走って、走ってまた走った。この試合で私達神戸は、勝ったのか負けたのか、まったく記憶になかったが、最近、アルバムの中に数枚の写真を見つけた。うち1枚の写真の裏には、「撮影35年1月15日 日本海事新聞社関西総局」のスタンプが押してあり、私の字で、書き込みがあった。対東船大第三回定期戦 東京1ー2本学である。
試合が終わり、三々五々シャワーを浴び、洋服に着替え、双方のメンバー、OB等が一堂に会した。懇親会の始まりである。形どおりに自己紹介が始まり、次々と立ち上がって名前をなのる。そして、私の番が来た。立ち上がって、口を開こうとしたその矢先、東京の席の中から、大きな声が飛んできた。
「金子だろう、知ってるョ〜。」 完