オランダ、2006年4月

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 2006年の新年、一番、気になった年賀状は熊本から届いた一枚・・曰く「オランダ行きはまだ計画の中にありますか」だった。
1年少し前、大阪で某船社に勤める甥っ子が海外勤務となり、オランダはロッテルダムへ赴任した。その時、何とはなしに「皆で
オランダへ行こう」という話が持ち上がっていた。妹はそれを催促してきたのだ。私も、前回海外へ出たのはもう10年以上前、
しばらく前から何処かへ行きたくて、ウズウズしていた。スキポール空港は、船員手帳で出国した思い出の地でもある。船員手帳
で出国・・・とは何かと言うと・・・

写真-1  1974年の私は、鉱油兼用船ジャパンライラックに 乗船していた。「航海の記録」によれば、4月8日頃戸 畑港で乗船している。乗組員の交代は日本へ寄港したと き・・・というのが普通であったが、そのころから飛行 機を使って外地で乗下船ということが始まりつつあった 船での税関やイミグレーションは様子は判るが、飛行機 の場合は全く見えてこない。そこで一度体験してみたい と本社へ具申したら、簡単にOKが出た。そして12月3 1日アムステルダムにて下船、飛行機で帰国した。勿論 パスポートは持っていないので、船員手帳で出入国した という訳なのである。
写真-2  さて行くとなったら動きは早い。さっそく参加者を募
ってみると結局3人だけ・・・10名前後は揃うと踏ん
でいたのに案外である。3人なら、ツアーに参加するこ
とはない。シュラフを担いで甥っ子の家で寝泊りできる
早速HISへ出かけて、格安航空券の情報を集める。価格
を見ながら出発時期を決めるのだが、往復10万円まで
に収めたい。こうして決めた出発日が4月5日。
写真-3  オランダは緯度でいうと北緯52度・・・北海道より
ずいぶんと北に位置しているが、寒さはそれほどでもな
い。スキポールに降りてみると、日差しはもうすっかり
春・・・。ロッテルダムへ向かう甥っ子の運転も、手馴
れたもので、1年ちょっとの間に、仕事も生活も板につ
いてきた様子がよく見て取れる。それにしても、小型車
ばかりだ。大型乗用車など皆無だ。中型車でさえ、ごく
稀・・・オランダ人、体格は世界一なのに、堅実さも一
番なところが、よく現れている。
写真-4  さぁ、またまたオランダへ来てしまった。今回はまっ
たくのプライベート。運河めぐり、キューケンホフ、風
車見物などは妹や妻のてまえ、はずせないであろう。だ
がしかし、ありきたりの観光だけでは、もったいない。
どこかで時間を作って、海抜0メートル地帯をめぐる自
転車ツアーに参加してみたい。この年令でも可能かどう
か、メールで問い合わせてみた。返事はすぐ返ってきた
普通に自転車に乗れるなら、なんの心配もないという。
オランダへ着いて、ツアーに参加する日が決まったら、
電話かメールで予約を入れろとあり、担当者の名前が書
かれている。「Vera van der Molen」・・・さしずめ
「風車小屋のベラ」さんってところか・・・楽しいでは
ないか、まるっきりオランダだ。
写真-5  最初はやはり運河ツアーだ。それにつけても、初めて
運河めぐりをした時のことが思い出される。私が初めて
オランダへ来たのは1970年1月、中国からヨーロッパ
という航路で、ハンブルグ、ロッテルダム、アントワー
プで中国からの貨物を揚げ、帰りはロッテルダムで中国
向けのドラム缶詰めの農薬や化学製品を積むというもの
であった。船の名は豊和丸、私は二等航海士だった。ベ
ルギーでの揚荷もすべて終わり、積荷のために2度目の
ロッテルダムに戻ってきたのは、「航海の記録」によれ
ば、1月28日早朝午前4時10分入港とある。そして出港
が2月7日3時30分10日間停泊したことになる。2月1日
は日曜日、数名の留守番を船に残して、30名ほどで、
アムステルダム観光をすることになった。バスが1台
船側まで来て、皆を乗せて出発だ。
写真-6  そして忘れえぬ出来事は、運河ツアーが始まってすぐ
に起きた。そのボートには私達だけではなく、外国人の
ツアーも乗っており、ほぼ満席、ボートが動き出すとガ
イド嬢が英語で説明を始めた。暫くすると我が豊和丸の
乗組員の間からも声があがってきた。「セコンド・オッ
サー!! 通訳、通訳」、何名かが声をあげたので、ガイ
ド嬢が訝って聴いてきた。

「Something wrong, what do they want?」
「They just want me to translate into Japanese.」
「Oh,You can do it? Go ahead,go ahead.」
「But,I'm afraid it may disturb them.」

と外国人を指して私、が、ガイド嬢はお構いなしにマイ
クを押し付けてきた。結局ガイドが説明、私が日本語に
するでマイクが二人の間を往復することになってしまっ
た。がしかし、その内容たるや、そのつもりで準備して
きた訳もなく、まさに冷や汗ものだったはず・・・。
でも
写真-7  しどろもどろながら、何とか最後まで翻訳を続けた。
そして終点に着くというとき、外国人に向かって一言挨
拶をした。「皆さん、違う言葉でお騒がせしました。
私達は豊和丸の乗組員でロッテルダムから来ました。
どうもありがとう」・・と、すると

「Bon voyage, bon voyage!!」

と声があがり、大きな拍手が沸き起こった。ボートが岸
に着いて下りる時にはガイド嬢(ガイドおばさんだった
かも・・・)は

「You have done it. Fantastic.」

と握手で送り出してくれた。皆に背中を押してもらって
しぶしぶではあったが貴重な体験をさせてもらった。何
とかなるもんだ。そして、このあと私とIさんは、「何
とかなるもんだ」を二人だけで、さらに実践することに
なりますが、それはまた別の機会にします。
写真-8  さて、4月9日は私達3人でキンデルダイクへ出かけ
ることになった。いわずと知れた風車である。ロッテル
ダムとドードレヒトを結ぶ通船に乗るのだが、生活路線
なので観光客よりは、殆どが一般の人達ばかりで、自転
車を押して乗ってくる。乗り場もスピドーの観光船乗り
場の西側にあって、あまり目立たない。ドードレヒトと
言えば「ショージ先生の船の博物館めぐり 世界編」に
よれば、あの幕末の軍艦「開陽丸」を建造した造船所が
あった地と紹介されている。その建造当時、留学してい
た赤松大三郎や上田虎吉が下宿したといわれる建物があ
ると聞けば、ある種の感慨を禁じえない。この本ではロ
ッテルダムの海事博物館も、紹介されているし、後日私
が覗くことになる係留展示の軍艦「Buffel」も語られて
いる。そして、ショージ先生とは元東京商船大学教授の
庄司邦昭先生であることは、勿論である。
写真-9  人気の無い乗り場で、待つことしばし、やって来た通
船に「キンデルダイク、キンデルダイク!!」と声をかけ
る。ロープを取っているおばさん甲板員が、なにやらオ
ランダ語を喋りながら手招きする・・・のにつられて乗
り込む。何人か観光客ではない先客がいて、すぐにエン
ジンがかかって出発だ。すると、さっきのおばさん甲板
員が首に吊った小さな黒い革鞄をへその上にのっけて再
び現れる。今度はまさしく切符切りの格好だ。革鞄は、
早く金を払えと言わんばかりに、口を前に向かって大き
く開けている。キンデルダイクまで片道か往復か・・・
くらいは雰囲気でわかる。往復3人分買ったのに、まだ
しきりに何か説明している。が、判らない・・・おばさ
んは、ブリッヂからなにやら紙切れを持ってきて、指差
しながら再び話始める。そして、判ったこと「二つ目の
船着場、リッデルケルクでいったん降りて、1時間待っ
て別の通船でキンデルダイクへ渡る」ということ。
写真-10  おばさんの話は一言も判らなかったが、手にしている
時刻表と地図のおかげで、言われた通りにしてきたら、
キンデルダイクに無事たどり着けた。風車地区への入り
口近くにはレストランも何軒かある。まず腹ごしらえと
一軒にはいる。チーズはどれが良いかとお試しを持って
くるわ、それまで注文すると量が多いゾ・・・・と、非
常に親切だ。食事が終わって出掛ける前に、トイレを使
おうとすると、店主が来て、皆さんはお金を入れなくて
もいい・・と声をかけてくる。料理と店主のもてなしす
べてに満足して、さぁこれから風車見物だ。
写真-11  オランダの風車は11・2世紀の古くからその風景の
なかに、めんめんと生きてきました。穀物を挽いて粉に
し、紙を漉き、油を絞り、丸太を製材し・・・と、いろ
んな仕事に利用されてきました。オランダでは、現在の
多くの産業も、もとは風車小屋から始まっているとも言
われるほどです。ここ、キンデルダイクの風車は治水と
いうもうひとつの重要な役割を担ってきました。すなわ
ち低地にたまった水を、揚水して川へ排水するというも
のです。連列風車と呼ばれる、風車をいくつも並べる配
置は、高水位差を克服するためのものだそうです。


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