私の山歩き

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 私が初めて、山歩きらしい事をしたのは1950年頃のことだ。ハイキングなんて洒落たものではなく親父の仕事に連れていかれただけ..
その頃の親父は「樫ヶ峰」の東面で植林をしていた。階段状に整備された巾1メートル程の山肌に50センチくらいまで成長した苗木を植えて
いくのだ。何の苗木だったのか親父は教えてくれなかった。仕事の合間に目を上げると、眼下に逆瀬川とゴルフ場その向こうの武庫郡良元村
が一望だった。

写真-15 そして二度目が高校2年の時の、大台大杉谷縦走。
小学校から一緒だった山岳部のМ君に付いて行った。
出発前には本を詰めて重くしたリュックを担いで武庫
川原を歩き回ってトレーニングのつもりだった。



その1957年の縦走の写真は こちら  からどうぞ。



写真-15  大学生になってからは六甲山系が近いこともあって気軽に何度も出かけた。奥池ではテントを張ってキャンプもした。現在の奥池周辺は 何万人も住む大都会に変貌しているが、半世紀前は夜にはテントの周りに猪が出没し、食物の入った鍋など放置していると、確実に食い荒 らされるような山の中だった。



その奥池キャンプの写真(1959年)は こちら  です。



写真-15 そして、三度目が1961年8月の大山登頂だ。
大学3年の夏休み後半、これが最後のチャンスと九州旅行を計画した。瀬戸内から宮崎、鹿屋、秋芳洞を経て、大山に登り、鳥取砂丘を見て帰って来るという計画だった。鹿屋では従兄真幸の所でP2V7の中も覗かせてもらった。その狭さに驚いたことを記憶している。 そのあと関門トンネルを門司から下関へ歩いて渡り秋芳洞へ向うのだが、途中で失敗してしまう。
写真-15  山陽線厚狭で山陰方面に乗り換えないといけないのに居眠りでもしていたのか乗り過ごしてしまった。しかし後戻りして秋芳洞観光は済ませたものの、時間を無駄に費消してしまった。
次の日登頂と砂丘見物を終えて駅に戻ってきたのは夕方6時、所持金100円玉2個で真夜中の発車までというか次の朝の帰宅まで過ごさねばならない。 夕刊1部50円を買って駅の水飲み場の水で飢えを凌ぎ、早朝宝塚駅でタクシーに飛び乗り、家に着いてお袋の顔を見た途端「お金!お金!タクシー代!」と叫んでしまった。

大山登頂中の写真は こちら  です。



写真-15  最後に今は存在しない散歩道について書いておこう。

神戸市営地下鉄が開業する前というか建設工事さえも始まる以前のことである。垂水区名谷の転法輪寺から大山寺まで樹林帯の中を細々と続く、秋には落葉を踏みしめて歩ける素晴らしい散歩道があった。地下鉄西神線の開通とその後の開発により周辺の様子は一変してしまい今は面影もない。

その転法輪寺で年初に行われる追難式の写真は

こちら  

三匹の鬼が杵と斧と槍で参拝者の頭を触って厄払いをした後,最後に餅が撒かれる

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